昭和五十四年十二月五日 朝の御理解

 御理解第八十二節 「大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝てはおられぬ。どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ。」


 お国が富まなければ国民の富もあり得ません。それにはやはり教祖様御自身が大蔵省に対する考え方、税金なら税金の事についての考え方、というのはおかげを受けて、そのおかげを受けた事を、例えば十俵納めればよいものでも、今年はよう出来たから、と、ま、十一俵、いうなら添えて出される、といったような考え方。これは御自身がそこを通っておられるから、それが言えれる事である、ね。それこそ税金を値切ろう値切ろうというのじゃなくて、ね。
 そりゃ勿論こちらの手落ちというか、で、税金が多くかかってくる場合もあります。それは正当に申請すれば、また適当な税金を納める事が出来るけれども、兎に角儲かっておっても儲からないようなふうをする、というような考え方ではおかげは受けられん、という事です。それに御徳を受ける、というのはむしろ、それに添えて出す、というような心がけが信心させて頂くものの上にはいるんだ、という事です。
 もうそこは御徳の世界、ね。だからそういう考え方の人達がお国に段々出来てくれば、お国はいよいよ富む事でしょうし、ね。信心の上で申しましてもやっぱり同じ事、ね。御結界は信者の、ま、いうならば口を見たようなもので、というふうに頂いてもいいでしょうね。皆さんがお供えをなさる、ね。出来るだけ少なくお供えをして、そして出来るだけおかげは多く頂きたい、というような根性ではおかげは受けられん、という事です。
 お役に立ちたい立ちたいという、そういう一念が燃えてまいります。それこそ心を削り見を削りしてでもお供えしたい、とこう、ね。それが神様に通ずるのです、出来るんです。もう本当に、今度の御造営にあたっては、それを、も、本当に痛感します。この方が何処からこういう捻出をなさっただろうか、と思われるようなやはり願いです、ね。そういう願いの信者が教会に多くなったら、教会は、も、絶対繁盛致します。教会の繁盛はそのまま、また信者の繁盛につながるわけです。
 できるだけ少しお供えをして、できるだけおかげを頂きたい、ね。できるだけ儲かって税金なちょこっとばっかり納めるように工夫をしたり考えたり、といったような事、そういう心がけでは、と言うのです。それで私は教祖の神様に神習わして頂く、というならば、んなら十俵納めりゃよいのに、いいや今年はよう出来たからと言うて、それに一俵添えて出す。そういうところに、いうなら信心の有難いところ、御徳を受けられる、というのはそこです。ね。
 どこの次郎やら太郎やらわからんようになる。せっかく信心をさせて頂くのであるから、ね、いうならば○○教会に何々あり、と言われる位なおかげを頂きたいですね。それこそ後の世までも残る位な、いうなら御徳を受けたいですね。それにはどうしても合楽理念の、いうならばマスター、体得する事。そしてそれをいよいよ実験して実証していく。こういう心がけになればおかげが受けられる。こういう心がけになれば力が受けられる、御徳が受けられるという体験を積んでいく、ね。
 昨日は神愛会でしたから関係教会の先生方もみんな集まって信心の研修を致しました。最近先生方の信心が非常に進んだのに感心致しました。愛理念は簡単です、明瞭です。そしておかげが確かです、と、ま、合楽のキャッチフレーズですけどもです、ね。その簡単です、というところから、いうならば明瞭です、というところに入っておられるという感じがします、ね。いかにも簡単明瞭ち言うたらどうも、簡単です、と切っておられるところが素晴らしいでしょう、ね。
 合楽理念の一言でも、それを頂いて帰って、それを本気で行ずる、という事になる、ね。そこには、もう直ぐ神様の働きが打てば響くように現れてくる、ね。あちらの飯塚地区の方からお参りになります方が、ね。どういう信心をさせて頂いたら、真の信心になれるでしょうか、真のおかげが受けられるでしょうか、という。まあ、そげん一遍には、それはなかなか教えられんよ、と、ね。けども何日も何日も続けて参られての御質問でした。
 それで私は兎に角○○さん合楽でいう土の信心を一つ極めて行きなさい、ね。土の信心といやあ、ま、合楽理念の芯のように、ま、言われますけれども、あれこれじゃなくて、も、土の信心。今日一日、もう本気で土の信心、ね。どんな事であっても黙って受ける、といったような信心をなさったらどうでしょうか、と言うて、ま、お取次させて頂いた。
 明くる日参って来て見えてからのお届けでした。昨日はお商売に出らして頂いて、いつも夕方しか帰らんのですけれども、もう兎に角家に帰りたくて仕方がない。家に帰ったら家は鍵がかかっておるところを見ると、家内が買物か何かに出た模様でございます。家の前まで行きましたら、中で電話がジャンジャンかかっておる。でまた、合鍵を持っておられましょうから、それで開けて中に入られた。もうそのタイミングの良さに、ハハァ合楽で、いうならば信心させて頂くとリズムが出る、と言われるが、こういう事だろうか、と、ま、感じた、と。
 しかもその電話が、も、大変おかげの電話であった。もしいなかったら、これはどこさん行ったかわからないような事になる、というようなお届けをなさいました。もうすでにリズムが生まれてきたんですね。そのリズムに乗りに乗って、いうならば本気で土の信心をさせて頂こう、という気になって、それを一つ貫かせてもらおう、成就させてもらうところから、いよいよそういう働きが、いうならば信心は楽しいです、有難いです、ね。
 しかも愉快に、と合楽で言うような、そのリズムに乗っての信心ですから愉快になってくるです、ね。もう合楽では、もういつもそういう話が本当ですか、というような話がいつもあります。ね。昨日の熊本の小川さんが御礼に出てました。二、三日まえ息子の事でお願いに来とったんですけども、息子が新聞配りを始めた。ところが昨日の言葉に昨日ですね、おとといだから。まだ暗いうちに出て行っておって、暫くその何時間も経ってからでしょうけども、帰って何かこうフラフラしたようにして帰ってきた。
 そして僕はお母さんおかげ頂いた、と言うて帰ってきたそうです。真暗い所に何かぶっつけてです、大きな木の前で倒れておる。その倒れとったのも大きな木にこうやって、なんかかっつくようにして倒れとった。一時間半意識不明であった。そして誰かが、ま、夜が明けた頃でしょうね、その前がすぐ病院であったから病院に担ぎ込んでおかげ頂いた。僕は丁度一時間半も意識を失うとったよ、と言われて一遍帰って、そしてもう一遍病院に出て来なさい、て、お医者さんが言われた。
 僕は思うた、て。もうとてもおかげ頂いた、ち思った。その病院が何と金光病院ちいう病院じゃったげな、金光(かねみつ)病院ち、いうわけたい、ね。も、本当に子供でも、あ、おかげ!と感ぜずにはおれないような働きがいつもある。合楽のばあいには、ね。合楽の信心さして頂いてると、そういう素晴らしいタイミングとか、そりゃまあ感じなんです。あゝおかげ頂いとったあ、という感じなんです。子供でもそれを感じる、感じる事が、も、次のおかげを呼ぶのです。
 昨日先生方のいろいろの発表を聞かして頂く中に、日奈久の富永先生が発表しておられました。中に、兎に角信心の深さ、というかね、広さ、というか、合楽の場合は、もう本当にそのギリギリのところを教えて頂く。ある偉い先生のお話の中にあったのでしょう、ね。その先生が病院に行かれた。そしてもう重体の病院なんかの場合には看護婦がつきっきりで、もう夜通しで、その、ま、白衣を着た看護婦さん達の御用ぶりを見て、初めてそこに神を見た、という表現をしてあったのを先生が話されました、ね。
 それこそ天使のように見えましょうね。白衣を着たその、それこそ人の命が助かる事の為に一生懸命看護をしておられる。そこに神をみた。その程度の事が今の金光教の信心だというわけです、ね。そりゃ信心がない者で、そういう風に見えるんじゃないでしょうかね。私共が神を見る。いわゆる見神する、神を見る。合楽では、どういう風に教えられるか、というと、ね。
 もうそれこそ、ま、嫁、姑の事でいうならば、先日もあるお届けがありましたが、とても今頃の嫁御さんばっかりは、も、本当了見には及ばんの、というような、その話を聞かせて頂いたんですけれども、その人はその嫁御の那かに神を見てるんです、ね。そしてそれをその、今度は自分が助かっとる、という事だけじゃなくて、この自分の助かりを嫁にも、と祈っておるです。
 これは先日、光橋先生が発表してましたがね、三十日の時に、ね。もう本当に家の嫁御は神様のごたる、というのではなくて反対です。それこそ鬼じゃろか邪じゃろか、ち言うごたる感じがするんだけども、自分の心の中には、それが有難く響いてくる。見神してわけです。その嫁御の中に神を見たわけです。そして自分が一段と信心を進めねばならん事に気づいたんです。
 そして周囲の相手の事も、また祈れれる一つのゆとりというようなものが、合楽ではそうです、ね。素晴らしい景色を見て本当に、それこそ天然の美じゃないですけれども、空にさえずる鳥の声、ね。峰より落つる瀧の音、といったような美しい声を聞いたり素晴らしい景色を見て、そこに神様を感じるというなら、これは普通です。神様のお手の鮮やかなものだな、と感じるわけですけれども、それとは反対。
 いうなら人間の、それこそ我情我欲が渦巻くような、ね。その中にあってもです、ね。そこに見神する、というのが合楽理念なんです。ね。難儀なら難儀な中に神様を見る。いや神様の心が感じられる、ね。そこまで行かなければ、本当の助かりにはなってまいりません。どういう中にでもそれを実際に開けて見れば愛という事がわかる、という事なんです、ね。
 そういう助かりを求めていく手立てが合楽理念には説いてあるのです、ね。いやだな、とか難儀だな、と、どうした奴じゃろか、と思うような人の中にでも見神する、神の姿を見る、神の声を聞く、という、ね。そこから生まれてくる、いわばおかげなんです。『山口の長田先生が発表しとられました。先生御大祭を仕えさせて頂いたが、その朝のお夢を頂きました、と。
 お夢の中に教祖の神は天地金乃神様から、ね、恩人とまで言われなさったお方じゃ、と。氏子からも神からも両方からの恩人はこの方金光大神である、と言われなさったほどしのお方だから、この教祖金光大神が天皇陛下であろうが大統領であろうが、ね。みんなが金光大神には御礼を言わなければならない、というお知らせやったげな、ね。
 それがなら天皇陛下でも大統領でも、そのわけがわかり金光教の信心がおわかりになったら、それこそ御礼を言いなさろうけれども、それがわからない者ばっかりであるところに御礼を言う事を知らないものが世界中に一杯なんだ、と、ね。そこにならば和賀心時代を世界に、十三日会を世界に、というような合楽で、ま、運動とも言われないぐらいな事でございますけれども、そういう願いをもって合楽が世界万国に、それこそ桂先生の祈りを受けるというなら、桂先生の祈りを受けて、この名教を世界津々浦々の国々にも広めたい、という念願をもっておられた。
 それをなら合楽は受けて合楽理念をもって、いうならば海外布教にでもという事を言うております。ね。』いうならば桂先生が名教と言われた、その名教である、いうならば謂われが合楽理念によって説きあかされておるわけである。なぜ名教か、と。そしてなら合楽理念を持って行けば、どこの国に行こうが、ね。それこそどこの次郎でも助かるごとなっとる。合楽理念を本当に頂こう、という気になったら、初めてんなら、こういう素晴らしい教えの元であるところの教祖金光大神様に御礼を言わなければならない、ね。
 天皇陛下であろうが大統領であろうが、どこどこの元首と言われる人であろうが、ね。金光大神に御礼を言わなければならない。それを金光教の信心者、私共一人一人がそうだ、とわからなきゃいけない。その為には金光大神が教えて下さったみ教えを本気で行じて頂いて、それを現わして、いうならばおかげにしていかなきゃならない。御徳にしていかなければならない。おかげを頂き御徳を頂いかなければ、ね。金光大神にそういうような意味に於ての御礼が言える、という事になってこない。ね。
 そういうおかげの世界に住むから、ね。金光大神のおかげで天地金乃神のおかげが受けられるようになった、と私共が御礼が言えれるわけです。そしてこの御礼の言葉を世界中の人達がそういう御礼で埋まるようなおかげを頂きたい、と念願するのが、ね。和賀心時代を世界に、というのである。そのためには、ね。私共がどうでも、ね。教祖様の御あられ方、税金を値切るような根性ではおかげにならん、ね、と言うて、また馬鹿のごと沢山納める事がよい事では決してありません。
 問題はその心の状態です。今年は沢山儲けさして頂いた、ね。税金も沢山来とるけれども、それが納められる、という事は有難い、と心がけさせて頂けれるような、いうならば信心者がです。金光教の信心によって育たなければならない、出来なければならない。で、なければそれを広めていく、という事は、いわば出来ない。なぜか、と言うと御徳がないから、ね。そういう生き方は教祖金光大神の生き方というものが神習わせて頂けて、いうならば御徳を受ける、ね。その御徳の光が、いわば光の輪ともなり、それが広がっていく、というおかげを頂きたい。ね。
 私はこのみ教えはいつも、この八十二節は難しいなあ、といつも思うんです。説きようがないような感じがするですけども今日はね。私は御徳を受ける心がけ、という事を聞いて頂いたんです。御徳を受ける人の心根、というものを聞いて頂いたんです。ね。御徳を受けなければ人に伝わってもまいりません。人にもいよいよ伝わっていくおかげを頂く為には自分自身の心の状態が、ね。それこそ大蔵省は人間の口を見たようなもので、教会の御結界というところは神様の見たようなもので、その口にお供えが入らなかったら、教会の発展はない、ね。自らの発展もない。
 本気でお役に立ちたい、という一念をです、燃やさして頂いておると自分で、どうしてこういう事が出来たであろうか、というようなおかげにもなってくる、ね。有り余ったものが、いうならばお供えをする、というような事は案外、ね、出来そうで出来ない。けれどもいうなら、それこそ神様に一心におすがりしてない中からでも、ない中からではでけん。そこから一心におすがりさせて頂いてです、ね。
 お役に立ちたいの一念を燃やさして頂くような、そういう心がけが御徳を受ける、という事です、ね。そういういうならば真心が納まる時にです。そういう信者が沢山出来たら、教会は必ず発展するでしょう。またそういう信者は必ず力を受けるでしょう、御徳を受けるでしょう。それこそどこの次郎やら太郎やら、ね。それこそ教会の歴史に、その名が残るほどしの、私はおかげが頂かれる、と思うです。
 皆さんどうでも一つ合楽教会の信者であった、と、いう事がです、ね。それこそいつの世までも残るくらいな信心を頂きたいですね。それこそどこの次郎やら太郎やらわからんような信者であってはつまりません、御徳を受けません。おかげは受けても、ね。今日はこの八十二節から御徳を受ける心がけのようなものを聞いて頂いたわけですね。どうぞ